前回、「給食をこぼした」という事件を扱った通信を紹介しました。
手元にあるその通信の原稿は、B4サイズ2枚分です。
たぶん、両面印刷したのだと思います。(もう34年前の通信なので、憶えてません<(_ _)>)
そんなふうに、記憶は薄れて消えていくものです。
両面印刷したかどうかだけでなく、給食をこぼしたことさえ、私はすっかり忘れていました。
しかし、子どもの連絡帳の記録を元にした学級通信を読み返すと、「あぁ、確かに給食こぼしたっけ」と思い出しました。
連絡帳の4行日記は、タイムカプセルなんですね~(^^)
では予告通り、学級通信「中央フリーウェイ no.29」の2枚目(裏面?)の記事を紹介します。
灯は小さくてもいつも暖かい(現実編)No.2
記録80
今日の給食の時、バットの中身がこぼれた。
最初は「好かーん」とか言ったけど、1年生が分けてくれた。
今度1の5の給食がこぼれたら、分けてあげようと思う。
分けてくれたのを食べていたら「ありがとう」を言いたくなった。
人のためになれる人間ってうらやましいね、
そしてこの記録の人の
「ありがとうを言いたくなった」
ってところに、人間としての素直さを感じた。
絵の中の僕は「ラッキー」と言ってるけど、
本当の僕は、思いやりを身近に感じて
「なんてすごいんだ、ガ~ン」という気分でした。
1年生の子たちはどう思ってたか、わからないけど、1の5の先生に聞いたところ、
自分から残していて、
「どうして残すのか?」
と聞いたら、
「2の1の先輩がこぼしたから、分けてあげるんです」
と答えたそうです。
先生が「こうすればいい」と言って、それに従ったわけではなかったのです。
それを聞いて、また「なんてすごいんだ、ガ~ン」となりました。
どんな善いことでも、僕から言われてするのと、自分の心に従ってするのでは、すごい差があると思う。
記録81
記録74のあなた。
(記録74は灯は小さくてもいつも暖かい(1986年6月11日の通信より) - もへちゃん先生の学級通信で紹介した子どもの連絡帳の記録です)
素晴らしいな。
私は、探してあげられるかどうか、自信ありません。
もしかして、見て見ぬふりをするかもしれない。
だから、相手のこと、考えてあげられたあなた、すごい。
人間って、たまに(たまじゃない人もいるかも)
相手のために一生懸命になれる時があるんですよね。
相手のために一生懸命にしてあげたいと思う時があるんですよね。
それって…自分の利益にならないことだと思う。
だけどそういうことって、やっぱり…
素敵なことだと思うし、そういう心、人間には大切なんだと思う。
どんな時でも人間は1人じゃないはず。
1人じゃ生きていけないんだから…。
給食時間の1の5の行動というのか…2の1にはできるかどうか怪しいところ。
でも、そういうふうになりたいですね。
1人ひとりが、いつもあったかい人になれたらいいです。
1人ひとりは小さくても…。
1の5にあこがれるばかりでなく、2の1にも心のあったかい人がいるのを忘れずに!
記録74の人もそうだし、同じような経験をした人(迷子の子をおんぶして探したという人)もいるのです。
自分が「ひとり」を感じる時はさびしいのです。
逆に、恋人や友人、(お父さんやお母さんなら)子どもと心が通い合っていると感じる時は、うれしく楽しいのです。
まして、自分が、そういう他人のためにある、他人とともにあると感じた時、生きる励みが起こってくる!
原稿をブログ用に入力していると、文体の不一致が気になりましたが、原文を尊重し、そのまま入力しました。
当時、私は23歳、文体だけでなくいろんな点で、まだまだ未熟でした<(_ _)>
さて、この時は13~14歳だった子たちも、今は中学生の保護者くらいの年齢です。
今回紹介した通信の終わりに
「恋人や友人、(お父さんやお母さんなら)子どもと心が通い合っていると感じる時は、うれしく楽しいのです」
「まして、自分が、そういう他人のためにある、他人とともにあると感じた時、生きる励みが起こってくる!」
と書きましたが、13~14歳当時より、中学生の保護者をしてる今の方が腑に落ちるかもしれません。
この頃はまだ、学級通信を製本するって発想を私自身が持ち得なかったから、きっとこの時のもへちゃん組のみんなは、手元に通信なんて残ってないだろうなぁ。
ブログがその代わりになってくれたら幸いです(^^)