2019年の年末、「忘年会スルー」という言葉が流行っているのだそうです。
「高いお金を払ってわざわざ上司の自慢話に付き合いたくない」という若年層だけでなく、私のような高い年齢層の中からも出てきているらしいです。
「楽しくない飲み会なら行きたくない」というのは、わからんでもないかなぁ(^^)
職場で、アウェイ感を感じているのか、ホーム感を感じているのかで、意見が分かれてるだけなんじゃないのかな?
さて、学級レクとしての忘年会(餅つき・豚汁・ビデオ上映)にとりくんだ1995年。強制参加ではありませんでしたが、ほとんどの子が参加しました。
そして、楽しく参加した子どもたちの多くはそのことを連絡帳や班ノートに書いてきました。
そこで私は、忘年会を振り返る記事を12月13日に書きました。
しかし「楽しかった」だけで終わるなんてもったいない!
でも、保護者や地域の方が力を貸してくれたことを恩着せがましく書いたところで、一部の子は読んでも、全ての子どもが、最後まで読む通信にはならないと私は思っています。
ではどう書いたか?
読んでみてください<(_ _)>
影響を受ける
12月10日の学級レク、楽しませてもらいました。
うちの子も「あのねぇ、ビデオで父さんが白い変な服を着てたんだよ」とかみさんに話していました。
計画を立ててくださった◯◯◯さんのお母さん、用意をしてくださった保護者の皆様、町内の行事に快く参加させてくれた◯◯の皆様、ありがとうございました。
記録66
◯◯ ◯◯◯(この記録を書いた子の名前)の段
十二月十日
レクレーションがあった。
僕は実力テスト会に行ったので、12:30くらいに着いた。
だから餅つきは終わっていたので、冷えた餅しか食べられなかった。
豚汁をいただいたが、もっとモヤシが入ってればよかったのになと思った。
◯◯では毎年、ああいうことをやっているのです。あと、祭りもおもしろいのです。
みなさん、住みたくなったでしょう?◯◯に。いい町ですよ。
春の桜は申し分ないくらいきれいで、太鼓の練習とかをして、みんな協力的で、でも大人は、話し合いの後、◯◯というところで酒を飲んでいる。それが楽しみで行く人が多い。
ところで何でこんな話になったのかなぁ。話を元にもどちましょう。
ビデオ、見ましたねぇ。あの部屋の中は暑かったー。
あっ、また話がそれよる…
みんな、おばさんやお姉様方は真剣に見よらすったですねぇ。
子どもは自分が映ると逃げてましたねぇ。あっ、僕だけか。
鏡で見るのもそうなんだけど、テレビとかに自分が映るとなんかはずかしいですよねぇ。部屋で1人で自分のビデオ見てたりすると、1人なのにこたつにもぐったりしますもんね。声が違うし、にやけてるし、いつも。
無事終わってみんな帰った、まぁ楽しい日でした。
いろんな人のおかげで、私たちは成長している。学級レクもその1つだ。
子どもばかりでなく、大人もまわりの人から影響を受けて成長している。
僕が君たちから影響を受け、学級記録をがんばろうと思うのもその1つだ。
人間はたえずまわりから影響を受ける。
それが成長させる方向か、それともいい加減になっていく方向か、ふだんはあまり考えず受け入れる。
戦時中、「戦争反対!」と叫んだ人に、国民のほとんどは「非国民」とののしった。
お互いが「戦争に協力すべし」という影響を与え合っていた結果だった。
君たちのまわりにも、2つの方向に「影響」がちりばめられている。
それは君たちどうしの中にもある。
「松本、死ね」…これは□□さんの連絡帳の裏にあった落書きだ。B’sの松本さんのことを書いたのかも?という推理もある。
書いた人もそんなにひどい気持ちで書いたわけじゃないだろう。
しかし、読む側の受け取り方は、その人その人で違う。
「荒れ」たころの◯◯中を思い出す大人もいる(僕のことだ)。
□□さんの家の人はどう思うだろうか?
いろんな言葉や行為に、まわりの人間は、少しずつ、少しずつ影響を受けていく。
君が言う、その言葉、書いている言葉は、人と人とをつなげる言葉だろうか?それとも切ってしまう言葉なのだろうか。
今の2の1が求めているのは、つながりあう行為や言葉だ。しかも学級レクのように明るく楽しいものを求め続けたい!
「楽しかったねぇ…。でも□□さんの連絡帳にひどい落書きがあった」
一度持ち上げて、落とし込む。
「楽しい」方に振り子を大きく振れば振るほど、反対側の「ひどい落書き」が心に響くと私は思っています。
平和劇のシナリオを書く際も、ギャグを入れて笑わせる場面を書きます。同じ手法です。
と言っても、この通信1枚で、クラスが変わるなんてありません。
「涵養(水がジワジワと染みこむ)」です(^^)
少しずつ少しずつです。
私が考える、忘年会スルーの原因のアウェイ感をホーム感に変えていくのも、少しずつ少しずつですね😊
さて、今回のブログを書くために1995年のこの通信を読み直して、「すごく地域とつながっているなぁ」と感じました。
今、日本全国で「コミュニティスクール」が流行っていますが、24年前に、楽しく自らすすんでとりくんでいたんですね(^^)
だからこそ、コミュニティスクールの考え方が大事だってもちろんわかっています。
でも、現場は多忙で多忙でどうしようもないくらいになってしまっています。
その上に、「コミュニティスクールだから」という理屈で、新たな行事が入ってきます。
私としては,地域との共同をどんどんすすめたいくらいですが、簡単にそうはいきません。
他にも「租税教室」やら「食育教育」やら「クラシックコンサート」やら…雨後の竹の子のように、学校でとりくむことがどんどん求められています。
文科省が実施する学習・学力実態調査(要するに「学力テスト」)で、いい点を取ることも求められます。
具体策として、過去問をどんどんやることを求められます(でも、そうやって出た結果が、文科省が求めている「学力」だとは、私は思いませんが)。授業時間を削ってでも。
1つひとつの大切であるべき行事に、魂を込める余裕もなく、行事消化的にこなすだけになってしまう…
1升瓶に2升は入らないんだけどなぁ…