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ひめゆり学徒隊・宮城 喜久子さんの証言と島唄

 新天皇の即位礼正殿の儀に、沖縄の高校生・相良倫子さんが招待されたことから、前回、前々回のブログでは、2018年の沖縄慰霊の日前に出した通信を2編(相良倫子さんの「平和の詩 生きる」、THE BOOMの「島唄」)紹介しました。

 島唄についての通信を紹介した前回のブログへ「ひめゆり学徒隊の方で、命からがら助かった体験談を直接聞くことができた…」というコメントをいただきました。

 そう言われたら、25年以上前に組合の学習会で聞いたひめゆり学徒隊・宮城 喜久子さんの講演について書いた通信があったはずだと思って探していたら…ありました!

 宮城さんは、つい最近までご活躍していたと思っていましたが、調べてみると2015年に亡くなられていました。

 そこで、沖縄戦を体験された宮城さんの講演の内容を残す意味で、2012年6月25日に発行した学年だよりを紹介します。

沖縄慰霊の日

 6月19日が福岡県民にとって忘れてならない日であると同様、先週の土曜日の6月23日は沖縄の人たちにとって忘れることのできない特別な一日です。
 沖縄は直接、戦場になりました。一般住民を巻き込み、20万あまりの尊い命と財産や、沖縄の文化財、自然がことごとく奪われました。半数に近い9万4000人余りの戦死者は、兵隊以外の一般県民や子どもでした。
 沖縄防衛第三十二軍司令官 牛島満中将と参謀長の長勇中将が自決した日が昭和20(1945)年6月23日とされています。この日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目としてとらえ、沖縄慰霊の日が制定されました。

ひめゆり学徒隊

 ひめゆり学徒隊とは、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女子校の女生徒、総数240名(教師18名、生徒222名)のことです。当時の彼女たちの年齢は15~19歳。戦争が激しくなった沖縄では、子どもも戦争の為に働かねばならず、彼女たちは沖縄陸軍病院に看護要員として従軍しました。宮城 喜久子さんはひめゆり学徒隊の生き残りとして、各地で沖縄で起こったことを話されています。僕も20年ほど前に講演を聞いたことがありました。

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各地で沖縄戦について証言されている宮城喜久子さん

 みなさんがひめゆりの塔を見学に来て、亡くなった方々の名前が碑に記されているのをご覧になると、みなさんなら名前の文字だけが見えるだけでしょうけれど、私には当時の顔が見えて声が聞こえるんですよ。

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ひめゆり学徒隊の慰霊碑
長い間ここ(陸軍病院のあった洞窟)には来れなかった

 私は長い間ここには来れなかったのですが、戦後36年たってからようやく来ることができました。ガマ(自然にできた洞窟)に降りることが出来たのは戦後40年です。

 その遺骨収集(1985年)のとき思いがけないものが出てきました。

 赤い筆箱、黒い下敷き、弁当箱。当時は自分の持ち物にかならずカタカナで名前を書いておくんです。赤い筆箱を手に取って汚れを払うと「ナカザトミツコ」とありました。黒い下敷きには「ナミヒラセツコ」。弁当箱には「アラガキ」とあって、これは「ああ、新垣先生のものだ」って。

戦争の真実の姿を先生も知らなかった

 私がいた陸軍病院は第三外科壕で、ケガをした兵隊さんが2000人も3000人もいました。

 ここに来るまでは後方の安全な場所で看護婦さんのお手伝いをしていればいいものと考えていましたが、とんでもない!戦場のまっただ中です。すぐ近くに爆弾は落ちるし、機関銃の掃射はしょっちゅうです。
 私は引率の先生に「病院には爆弾は落ちないって聞いていたのになぜ落ちるんですか」と聞きました。先生もおどろいた顔で「おかしい、おかしい」というばかりです。

 先生も戦争がどういうものかまったく知らなかったんですね。

 学校では、「日本は神の国で、絶対に負けることはない」と教えられ、日本軍を友軍と呼んでいました。信頼していました。学徒隊の友だちほとんどが死ぬとは夢にも思いませんでした。

親は反対した

 私たちに従軍看護婦の仕事に就けという命令が下ったときに、学校から親の許可を貰ってくるようにいわれました。
 私たちは天皇と国のために命を捧げることができるのを誇りに思っていました。とくに、沖縄の私たちは日本人と区別されることが悔しかったので、これで正真正銘の日本人になれると思っていたのです。
 ですから、親もきっと喜んでくれるものと信じていました。ところが親のいうことは予想と違っていました。
 父親は「おまえを16歳まで育てたのは死なすためじゃない」といいます。母親は「戦場に行ったら死ぬかもしれないよ。みんなで逃げなさい」といって泣きます。
 私は「そんなことをしたら非国民にされる」と聞き入れませんでした。
 若い私たちには学校で教えられたことが心の底まで染み渡っていたのです。

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学校で教えられたことが心の底まで染み渡っていたのです
ガマ(自然にできた洞窟)でみたもの

 病院(と言っても洞窟ですが)はものすごい悪臭で鼻と口をおおいたくなるのですが、日本の軍に怒られます。吐きそうな臭いでも鼻と口を手でおおうことが許されなかったのです。
 ケガ人がつぎつぎに運ばれてきて、それも普通のケガではありません。血みどろでどこに傷があるのかさえわからないのです。見ると手がなかったり足がなかったり、顔が潰れていたり。本当に怖くて怖くて、何をどうしていいかわからなくて、ただ立ちすくみ、震えていると、軍医が「ばか者!!何をしている、ここは戦場だ、お前たちは看護に来たんだ!しっかりしろ!」と怒られてました。
 私たちは学校で、天皇とお国のために奉仕するのが当たり前と教え込まされていましたから、日本軍の命令に従い一言のグチもこぼさずにがまんしました。
 ケガをした兵隊さんが「とってくれ、とってくれ」と言いました。何をとってくれといっているのかと思いますと、傷口に白いものがたくさんついています。とても十分な手当などできませんから、ウジがわいているんです。そのウジが人間の肉を食べているんです。その音が聞こえるんですよ。

 やせこけた兵隊とコロコロ太ったウジ、何もいわなくなった人、ガーゼで水を与える、血と膿の悪臭、空き缶で小便を取る、喉に穴が開いた兵隊…いつの間にか、死体や手足を捨てに行くのにも慣れてしまいました。毎日やっていると感覚がおかしくなってしまうんです。死体を見ても何とも感じないんです。

食事

 「ピンポン玉おにぎり」と呼んでいたのですが、ピンポン玉一個分の大きさのおにぎり一つが私たちの一日の食事でした。
 夜は井戸に水を汲みに行きました。弾が飛んで来るので、井戸まで這って行きます。頭の上を花火のように光る弾が通ります。井戸では水汲みに来る人を狙って撃つのですが、その死体が浮いている井戸です。 いつも夜なので、暗くて色が分からないのですが、その血の匂いのする水を飲み、水筒いっぱいに水を汲んでガマに戻りました。
 ガマに戻ると動けなくなった友達に水を飲ませました。その友達には「ありがとう」「ありがとう」と言ってもらえました。

「けが人や重傷者を置き去りにして逃げろ」と命令され…

 戦争がますます激しくなり、6月18日「学徒隊を解散。ここから出て行け」と言われ、第1外科壕から出されました。けが人や重傷者のうめき声、叫び声。動けなくなった友だちも壕に残しました。

 友だちを残して出て行ったことが今でも心に刺さっています。

 33年忌にやっとそこまで行けました。しかし足が震えました。姉を残した友だちは「お姉さんごめんなさい」と謝っていました。40年ぶりに中に入り、遺骨、遺品を拾いました。整理されていると思っていたのですが、遺骨がたくさんありました。

逃げた先で

 岸にたどり着いたとき、「今日は静かだね」と、教頭先生や友達と話しながら休んでいました。

 そのとき突然、日本兵たちが私たちの方に逃げてくるんです。その日本兵を追って米兵も現われました。

 私は米兵が撃つ弾を避けました。たおれ込むと同時に私の顔の隣には撃たれた友達の顔、右肩には日本兵の体がおおいかぶさりました。私は「もうダメだ」と渡されていた手りゅう弾を取り出し、手に握ってピンを抜こうとしたとき、「兼城さん、手りゅう弾をおいて」という比嘉さんの声が聞こえました(兼城は当時の姓)。どうしようかと一瞬迷いましたが、言われるままに手りゅう弾を地面におこうとしたとき、米兵がさっと手を伸ばし、私の手から手りゅう弾を奪うように取り上げました。手りゅう弾を取り上げると、米兵は私たち二人に突きつけていた自動小銃を下ろし、「へーイ、スクールガール、スクールガール」と声をかけてきました。

 ついさっきの銃を構えていたときの怖い表情とはうって変わり、やわらかな顔で私たち二人に声をかけていました。それはあまりにも意外な米兵の態度でした。

自決した教頭先生と友だち

 その後、さっき教頭先生といっしょに座っていた場所に目をやりました。その瞬間に見た光景を、私は生涯忘れることができません。
 岩を鮮血で真っ赤に染めた中に、10名の学友が折り重なるように倒れていました。
 米兵が来るのを察知した一瞬、左に避けた私たち2人は生き残り、右に避けた教頭先生とみんなは死んでしまったのです。

 信じられない事実を前に、私たちはふらふらとしゃがみこんでしまいました。あまりのショックに、私たち2人は泣くことも忘れていました。すこしして、意識がもどったとき、私たち2人は声をあげて泣いていました。
 教頭先生の倒れている近くには、一高女3年生の金城秀子さん、座間味静枝さん、浜比嘉信子さんが倒れていましたが、肉片が飛び散り、誰であるか判別できないほどのむごい姿になっていました。

 4年生の宮城貞子さんは、岩にもたれ、空を見上げるようにして死んでいました。お人形のようにきれいな目をして、美人だとみんなから言われていた貞子さんは、頬のあちこちに小さな穴があいていましたが、きれいな目をパッチリと開けたまま死んでいました。

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犠牲となった女学生

 同じ4年生の板良敷良子さん、普天間千代子さん、宮城登美子さんが、貞子さんの近くに倒れていました。やはり体に損傷はないように見えました。

 ふと、千代子さんが「ウーン」とうなるような声をあげました。生きている!と思ったのですが、千代子さんは私の目の前で息を引き取りました。

捕虜収容所で

 連れて行かれた収容所で7ヶ月ぶりに母に会いました。母は「生きていた。」と喜んでくれました。

 動けなくなった友を置き去りにして、そして集団自決で目の前で友が死んで…、私は死んだ方がよかったと思っていましたが、母に謝まりました。

最後に

 人間の基本はいのちです。生きられる幸せに気づいてほしいです。平和でないと生きられません。「平和を作る」大事なときには、その言葉を思い出してください。そして「戦争がいかに愚かなことか」を感じ取ってください。

 

 私が話を聞いたときの宮城さんは写真よりかなり若かったです。25年以上前だから当たり前ですね。

    沖縄戦のことは知っていたつもりでしたが、当時まだ青年教師だった私にとって、宮城さんの話は衝撃的でした。

 

 今、改めて宮城さんの話を読み直すと

沖縄の私たちは日本人と区別されることが悔しかったので、これで正真正銘の日本人になれると思っていたのです」

とありました。

 これは前回のブログで紹介した

  • 「明治以降、日本が富国強兵に向かった時、沖縄県民はついていきかねました。それで『日本人としてはおかしいよ』と沖縄の人に対して差別が始まったのです。昭和にはいると一人前の日本人として認められたいため、沖縄の先生、行政職員が方言をなくす運動を推し進めました。」

と重なります。けれど25年前の私は、宮城さんのこの証言に込められた意味がわかりませんでした。今はもちろんわかります。これは沖縄の人に対する「差別」です。そしてそれを推し進めたのが教師や行政職員だったことも。

 

 さらに、

父親は『おまえを16歳まで育てたのは死なすためじゃない』といいます。母親は『戦場に行ったら死ぬかもしれないよ。みんなで逃げなさい』といって泣きます。私は『そんなことをしたら非国民にされる』と聞き入れませんでした。若い私たちには学校で教えられたことが心の底まで染み渡っていたのです。」

とありました。

 これは前回のブログの

  • 「学校では、日本本土同様『お国のために死ぬことは名誉なことだ』と教え込まれました。」

と重なります。

 25年前の私は、宮城さんが語ったこの証言の意味も漠然としか理解できていませんでした。今はわかります、教え子を戦場に送ったのはまぎれもなく、私の先輩たちであったことが。

 

 しかし一方で

私は引率の先生に『病院には爆弾は落ちないって聞いていたのになぜ落ちるんですか』と聞きました。先生もおどろいた顔で『おかしい、おかしい』というばかりです。先生も戦争がどういうものかまったく知らなかったんですね。学校では、『日本は神の国で、絶対に負けることはない』と教えられ、日本軍を友軍と呼んでいました。信頼していました。学徒隊の友だちほとんどが死ぬとは夢にも思いませんでした。」

とありました。宮城さんのこの証言を私はすっかり忘れていました。

 前回のブログでの

  • 「その結果、太平洋戦争では沖縄の子どもたちは文字通り、死ぬまで働きました。」

という表現だけでは足りなかったということに今更ながら気づきました。

 

 過去に学んだことも改めて見直すことってが大事なんだなと、このブログを書きながら思い知った次第です😢

 でも見直すよりも、宮城さんのお話をもう一度聞きたかったです。ご冥福をお祈りいたします。