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映画「ひろしま」見るべきです!

 知人のFacebookNHKEテレで放送された映画「ひろしま」のことを知りました。録画してたけど、見てなかったので、夏休み最後の日に見てみました。

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終戦からわずか8年後に作成されたからか、そのリアリティに圧倒されます

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始まる前に、映画監督のオリバー・ストーンが「絶対に絶対に見て欲しい」と解説しました。それまで「見ようかなぁ、どうしようかなぁ」と思ってましたが、強く惹かれました

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広島市民が参加!しかも8万8千人も!!そして被爆者自らが再現!?

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リアリティがすごすぎて…。目を背けたくなるけれど、1945年8月6日広島はこんなだったんだなぁ。演じられている人々の記憶の中と同じなんだろうなぁと思うと、反戦平和を語るためには目を背けられません

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再評価されているということは、危険が迫っているからでしょうか

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映画の題名は「ひろしま
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制作は日本教職員組合、協力は広島市日本労働組合総評議会広島県労働組合会議、原爆の子友の会、原爆被爆者の会…
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出演者は広島原爆被害者、広島各労働組合員、園児・児童・生徒・学生・PTA・一般市民、延べ8万8千5百余人、そして当時のトップスターの山田五十鈴さん、月丘夢路さん

 市民の力でできた映画ということは知りませんでした。

 今までヒロシマの原爆について平和劇等にとりくんだことがありましたが、この映画を知っていたら事前学習として実行委員の子どもたちに迷わず見せてました。

 

 そこで今日は、2014年の平和集会実行委員会の子どもたちの事前学習に使った通信を紹介します。

 

 第5回平和集会実行委員学習会「佐々木家へのねたみ」

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 佐々木禎子さんは、昭和18年1月7日、理髪業を営む両親のもとに生まれました。2歳の時、爆心地から約1.6kmの楠町1丁目で被爆しましたが、奇跡的にも怪我等はありませんでした。
 その後昭和24年4月、広島市立幟町小学校に進学しました。運動会ではリレーの選手を努めるなど、活発な普通の女の子でした。
 しかし、11歳の時ひいた風邪で、リンパ腺の腫れが引きませんでした。そこで異常に思い、ABCC(原爆障害調査委員会)にて何度か検査を受けました。

 そして昭和30年2月18日、かかりつけの医師から「亜急性リンパ線白血病」と診断され、「あと3ヶ月、持っても1年の命」と診断されました。その後広島日赤病院へと入院したのです。卒業式も、中学校への進学もままならないものでした。

 同時にこの頃、佐々木家の家計はかなり逼迫していました。禎子の入院費用の他、輸血の血液代、「コーチゾン」と呼ばれる痛み止めの注射代などがかなりかさんでいました。この時代には当然「国民健康保険」なんてものはなく、血液も「血液銀行(血を売りに来た人)」から買うしかなかったのです。

 それから、人の良かった父・繁夫さんが借金の連帯保証人になったばかりに背負った借金のため、繁華街・鉄砲町の理髪店を手放さなければならなくなりました。そして当時「原爆スラム街」と言われた基町に引っ越しました。

 愛知淑徳高青少年赤十字団員が「原爆患者にさしあげてください」との手紙と共に,赤,黄,紫などのセロハンによる折り鶴4千羽が日赤病院に贈られたのは、この頃です。「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じた禎子さんは、その日から薬の包装紙やキャンデーの包み紙等でせっせと鶴を折りました。

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禎子さんが折った鶴を手にする実兄の雅弘さん

 しかし運命というものは残酷なもので、昭和30年10月25日の朝、危篤状態となりました。家族や授業を放り出して駆けつけたかっての同級生に見取られながら午前9時57分、佐々木禎子さんは12歳、という短い生涯を終えたのでした。同級生達は大泣きしました。

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 禎子さんのいなくなったベッドからは、数字の書かれた1枚のザラ紙が見つかりました。調べてみると、自分の白血球・赤血球などをメモしたものでした。おそらく彼女は、自分の死期(しき)が近い事を悟(さと)っていたのかもしれません。(このザラ紙は現在、彼女の折った鶴と一緒に広島平和記念資料館のガラスケースにおさめられています。)

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 その死に衝撃を受けた同級生達は、「禎子さんの、いや原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけました。「全国学校校長会」でチラシを配り、街頭に立って募金をしたり、それは精力的な活動でした。時には一部の学校から批判的な意見を言われたり、活動そのものが分裂しかかった事もありました。 それでも、全国3100校余りの生徒と、イギリスをはじめ世界9か国からの支援により、その動きは現実のものへとなっていきました。

 また、こんな逸話があります。彼女がこけしが好きだった事にちなんでその活動の会は「こけしの会」と呼ばれていたのですが、その会の歌「星の一つに」は、当時コロンビアの一流作曲家で、代表曲に美空ひばりの「港町十三番地」等がある上原げんと氏が、会の活動に賛同して無報酬で作曲した、というものです。

 そして昭和33年5月5日に完成したのが、高さ9mのブロンズ像「原爆の子の像」です。

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 三脚ドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右には明るい未来と希望を象徴する少年少女の像があります。像の下におかれた石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。
 この像は、当時東京芸術大学教授だった菊地一雄氏によって造られ、塔の内部には、菊地氏とも親交があり、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士が寄贈した古代の銅鐸を模した鐘と金色の鶴が吊るされ、風鈴式に音が出るようになっています。(現在この鐘と鶴は、広島平和記念資料館東館1階ロビーに展示されています)

 しかし、その後の佐々木家の運命は残酷なものでした。この物語が映画化されたり、新聞に取り上げられると、他の被爆者や遺族からやっかみや妬みを受けるようになりました。
 「禎子さんだけが原爆で死んだのではない!うちの子どもだって、原爆で死んだんだ!何で禎子さんだけがちやほやされるんだ!」とか、「映画化されたり、記念の像が造られただけでいい気になるな!」とか、「記念の像ができたり、映画になったおかげで、さぞ儲けた事でしょうね。」とか。無言電話や、いたずら電話もかなりの数になりました。
 そして借金取りからも、「映画の原作料が入っただろう」と、より厳しい取立てを受けるようになりました。そのため、佐々木家は広島を追われるようにして、親戚を頼って遠い博多まで引越しをせざるを得ない状況になりました。

 今も「原爆の子の像」は広島平和記念公園の中にあり、修学旅行生等が折り鶴を捧げる姿を目にします。しかし近年、この折り鶴を引きちぎったり、焼いたりする心無い行為が多くなっているのは非常に情けない事です。この間のブログでお話した、「平和公園でのバーベキュー」や「相生橋からの遊び半分の飛びこみ」など、最近の世代は本当に「平和教育」というものを理解しているのか、ということが多く見受けられます。

 これから「戦争を知らない世代」が増えていきます。憲法の改正も、懸念されています。しかし、我々は広島・長崎で起こった原子爆弾の悲劇や、各地の空襲での悲劇を決して、忘れてはならないのです。次の世代に「戦争の悲劇とおろかさ」を伝えていく義務があるのではないでしょうか。

みゃあみゃあのトークトーク 「原爆の子の像」の話より 
http://plaza.rakuten.co.jp/myamyaspace/diary/200608100000/

 

被爆者は禎子だけじゃねぇ」「禎子を金儲けのネタにしとる」といったねたみ差別にいたたまれなくなって、逃げるように広島を後にしたこと、

ずっと表に出ないようにしてた間に、禎子の話が一人歩きしてしまい、父が悲しんでいたこと、

だから今、本当の禎子のことを知ってもらいたいこと、

などを生徒たちとともに、実兄の雅弘さんへのインタビューで知りました。

そしてそれを2014年平和劇「禎子ふたたび」のシナリオに織り込みました。