もへちゃん先生の学級通信の資料置き場

もへちゃん先生の学級通信はhttps;./.moheblo.comに引っ越しました

折り鶴の少女 サダコ

今日は8月6日

広島は被爆から74回目の「原爆の日」を迎えました。

松井一実広島市長は平和宣言で次のように日本国政府に要請しました。

f:id:toshioh:20190806205447j:plain

松井一実 広島市
日本政府には唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。その上で、日本国憲法の平和主義を体現するためにも、核兵器のない世界の実現に更に一歩踏み込んでリーダーシップを発揮していただきたい。

そこで今日は、学級通信ではなく、佐々木雅弘さんに3年前、生徒と聞き取りをした際の書き起こしを紹介します。

雅弘さんは、「折り鶴の少女サダコ」として知られている佐々木禎子さんの実兄で、以前勤務していた学校の校区にお住まいでした。

いつもの学級通信よりかなり長いのですが、貴重な証言だと思います。

f:id:toshioh:20190806210815j:plain

禎子さんの実兄、佐々木雅弘さん

サダコさんの実の兄・佐々木雅弘さんからのききとり

僕も禎子も同じ場所で同じように被爆した。禎子は12歳で天に召された。それぞれに役割がある。

禎子は日本よりむしろ世界での方が知られている。「サダコを知ってますか」というとほとんどの人が手を挙げる。日本だとヒロシマだったら、禎子のことは知っているけど…。

禎子はすごい子だった。12歳で亡くなった。中学へは入学したけれど一度も登校できなかった。そして三重苦だった。

1つめは経済的な面

禎子が入院したときは極貧の状態だった。その日食べるお米が無い。おかずも無い。それ以前は福岡でいえば天神みたいなところで、当時珍しい三階建ての家で恵まれた生活をしていた。禎子が入院する一年ちょっと前に父親が友人の借金の連帯保証人になった。そしてその友人が夜逃げ。借金を返さなければならなくなった。禎子はそのことを認識している中、1955年2月21日入院。

2つめは精神的な面

12歳の子どもで命がなくなるってわかったら、わがままを言いたくなる。けれど両親に心配かけちゃいけないということで、入院中は一回もわがままを言わなかった。

3つめは肉体的な面

白血病は血液のがん、末期になると身体全身にものすごい痛み。がん患者はモルヒネで痛みを麻痺させ、その間に眠り薬を注射され、だんだん弱っていって亡くなる。禎子はそのことを誰かから聞いていて、死ぬまで痛み止めを打たせなかった。両親にも私にも「今日は痛いんだよ」って顔を見せたことがなかった。12歳の子にそんなことができますか?

想いやり

禎子が三重苦をいかに乗り切ったか。それは禎子の究極の心「想いやり」(相手のことを想いやれる心)。

今の学校でも関係ある。想いやりの心を周りにめぐらせていたら、自分の周りに小さな平和ができるはず。自分の周りの小さな平和無くして、大きな平和は繋がらない。学校で、家庭で小さな平和ができて、重なり合って大きく繋がっていく。この想いやりが社会全体の平和に繋がり、それがずーっと繋がっていくと世界平和に繋がっていく。

原爆のため、白血病を発症し8ヶ月の闘病の後、12歳で亡くなった折り鶴の少女、佐々木禎子

あれから72年が過ぎ去りました。禎子は今もなお、広島の平和公園にある原爆の子の像の一番上で、折り鶴を抱えながら、平和の象徴として生き続けています。しかしこの瞬間にも世界のどこかで紛争や戦争があり、殺しあいをしています。

戦争は憎しみの心を燃え上がらせ、さらに強い憎しみを生み出します。過去の悲劇は伝えていかねばなりません。しかし遺恨の心は歴史に刻むべきではありません。禎子は命と引き替えにそのことを教えてくれました。

 

1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下されました。

その情景とにおいは体験したことも無い地獄絵の様相を呈していました。迫り来る火炎の竜巻から逃れるため、必死で三篠川に逃れました。川の上で4~5時間さまよい続けました。その間、黒い雨と放射線を含んだちりにまみれ続けました。これが禎子の運命を狂わせるとは知るよしもありませんでした。それからすぐ終戦となり、みんなと労苦を分かち合いながら日本は復興していったのです。

 

禎子も健康で元気に育っていきました。1954(昭和29)年4月幟町小学校6年に進級しました。男子顔負けの足の速い女の子でした。しかしこのとき既に病魔が静かに近寄ってきていたのです。

そして同じ頃、家がお金の支払いに極端に困り初めていたことに禎子も私も全く気づいていませんでした。父は友人の保証人を引き受けて、大きな借金を抱えていました。

そんな中、禎子は自分の身体の変化を感じていました。

「うち、ひょっとしたら原爆病なんじゃろうか」

父もこのところ元気が無い禎子のあごの下の腫れが気になっていました。

 

かかりつけの小児科医から「本当にお気の毒ですが、娘さんは早ければ3ヶ月、長くても1年くらいと覚悟しといた方がいいでしょう」と告知されました。

「まさか、自分の娘が白血病じゃなんて」

愕然とした父と母は、どうしても、お金が無くても、禎子を喜ばせたいと考えました。そしてすぐ親戚からお金をかき集めました。

「禎子、父ちゃんと着物を買いに行こう」

でも禎子は、今、お金のやりくりが厳しいことを全部知っていました。

「お父ちゃん、入院は洋服でええし、着物は退院のお祝いにこうて」

「ばかじゃのうお前は。お金のことは心配せんでもええんじゃ」

母は花嫁衣装のつもりで徹夜で桜模様の着物を縫い上げました。

「禎子ごめんね、これがお母ちゃんが今してあげられる精一杯のことやけん」

 

2月21日入院、

その後、禎子は自分のカルテの保管している場所を知り、誰にも知られないように白血球の数をメモに書き取りはじめました。

 

5月、父さんは、がんの進行状態を医師から聞き、痛みを我慢している娘のことは察しが付きました。けれど痛みを我慢している禎子にたった800円の血液すら買ってやれないのです。一人散髪すると150円、一日の売り上げは800円。禎子はお父さんの気持ちを察し、痛みをこらえて隠れて泣くしかありませんでした。

 

あまりの激痛に耐えられなかったんだと思います。たった一度だけ家に電話をかけてきたことがありました。

「お父ちゃん、今、お見舞いのお金150円持っとるけん、このお金足せば注射できる?でもね、急がんでもええけんね」と遠慮がちに言ったそうです。

何もかも我慢している娘、その上そんなことまで言わせて、なんと情けない親か。

 

7月26日院長回診、こっそり見たカルテには病名「亜急性リンパ性白血病」と書かれていました。禎子は自分の病気が白血病だと知ってしまいました。白血球の数をメモすることもやめてしまいました。

 

8月、禎子は千羽鶴のおまじないを信じ、折り鶴を折り始めました。生きる夢をつなげ、苦痛とさみしさを紛らわせるために、一生懸命、一羽一羽の折り鶴に自分の残りの命をかけ、願いを折り込んでいきました。

折り鶴は1000羽を超えました。

禎子がどんなに痛いかを察し、私たちが慰めようとしても、禎子は気丈にふるまうのです。わずか12歳の娘が…と思うと本当に辛すぎます。

 

9月、トイレも足が痛くて歩きにくいのに、病室でするのを嫌がりました。

「お母ちゃんがおぶっていくよ」

「ええけん、大丈夫じゃけん。自分で歩かにゃ、歩けんようになるけん」

次の朝、母が仕事に帰るころ、息苦しそうに足を引きずりながら、エレベーターのところまでやっと着いてきました。

「じゃあまたね」と母が手を振ると、

「お母ちゃんは仕事に戻らんといけんのじゃねぇ」と禎子が初めて弱音を吐き、大粒の涙を流しました。入院中、禎子が涙を流したのはそれが最初で最後でした。我慢して我慢して我慢してこぼれた涙。でも禎子はこの涙さえ反省して、その後涙を見せることはありませんでした。

 

10月25日、禎子の急変が告げられ、日赤に駆けつけました。

うつろな目をした禎子がそこに。

そっと自分のほほを禎子のほほにこすりつけ、

「禎子、痛いか、ごめんな、父ちゃんはここにおるよ」

禎子は軽いほほえみをかえしました。

「お父ちゃん、来てくれてありがとう」

「そんなこと言うなよ。何も言わんでいいんじゃ。来るのは当たり前じゃ」

もう涙を隠そうとしても止まりません。お母さんは禎子の手を握りとりすがって泣いています。

「お母ちゃん、泣いちゃいけん。禎子は大丈夫じゃけん、泣かんで」

なお母を想いやる禎子

「禎子、何か食べたいものは無いか」

「お父ちゃん、お茶漬けが食べたい」

命の消える時を迎えてもお金を使わせまいと心配する娘

禎子、もうお金のことは心配せんでもええんじゃ…と一度でも自信を持って言ってやりたかった。

禎子が望んだお茶漬けを口に入れてやると「おいしい。ありがとう」そう言って母に抱かれる赤ちゃんみたいに眠るように目を閉じました。

 

1955(昭和30)年10月25日午前9時57分、苦しんで苦しんだ分、本当に安らかな旅立ちでした。

 

禎子の死後、ベッドの下から1枚のメモが見つかりました。誰も知らなかったメモは禎子が書き残した自分の白血球の数でした。禎子は白血球の数を書き写しながら、自分の命の長さを確かめていたのです。

残り少ない命と知っても、自分の定めを愚痴らず恨まず、娘としてなるべく穏やかにふるまい、痛みと苦しみを大きな想いやりの心に包み込み、私たちに感謝の心で見事な生き様を見せてくれました。

自分の命が無くなるとわかっていて他人に思いやりの心をめぐらせてこその本当の思いやりの心。

もっと光や風を気持ちいいと感じさせてやりたかった。

禎子とあなた自身を比べてみてください。禎子と同世代のあなたたち、人に対しての思いやりはあったか。両親に対しての感謝はあったか。今日、ご飯をいただけている、ありがたいと思ったか。すべて相手を思いやったときに生まれる心です。

小さな平和は身近なところから。いじめがあるような中に小さな平和はできはしない。それを無くせなくて大きな平和はない。

 

もう一つ、私たち家族に起こった悲しみも、原爆によるたくさんの悲しみも、これらの悲しみは忘れることがあってはなりません。授業や朗読劇やいろいろな方法で伝え続けていかなければなりません。しかし、その時点で受けた恨み辛み、いわゆる遺恨の心は伝えるべきでは無い。遺恨を伝えていけば、相手と打ち解ける心ができあがりません。相手のことをしっかり聞いて、何を相手は求めているのかを把握した上で、何か話し合いの道筋がないものかと考えるのが、武器を使わない・戦争をなくす心に繋がっていく大きな第一歩になります。

 

私はこの心を持ってアメリカに行き、原爆投下命令を出したトルーマン大統領のお孫さんにニューヨークでお会いしました。

原爆の一被害者としてはお会いしません。

お互い戦争をした国が、どうやったら次の世代の子どもたちに、戦争の無い美しい地球を残せるかを話し合いたい

だから彼は来た。想像してたより柔和な顔をしていた。

「あなたは原爆について、なにかこれまで思われたことはありますか」

「雅弘、おじいさまが原爆投下の命令を下したと知って、若い頃に嫌悪感を感じ、非常に荒れた時期があった。雅弘の話を聞いて、ヒロシマナガサキ被爆者に対する考え方が一変した。過去の遺恨ではなく、将来どうするかが大切なんだとわかった。今まではヒロシマナガサキに行けば『あれが原爆を命令したトルーマンの孫だ。たたき殺してしまえ』と言われたり、罵声を浴びせられると思っていた。雅弘の話を聞いて、やはり聞くべき事は聞かねばならないとわかった」

その後、彼はヒロシマナガサキを訪れ40数名の被爆者の話に真摯に耳を傾けた。被爆者も誰一人罵声を浴びせる人はいなかった。

 

私と雅弘さんとの出会いは5年以上前になります。

平和劇で禎子さんのことをとりあげて、シナリオを書いていると、資料として集めた本やデータによって、禎子さんの言葉や行動が違っていて、どれが正しいかわからなくなったので、実のお兄さんに聞くのが一番いいと考え、連絡を取ったのがきっかけでした。

聞かせてもらったお話、その後にさせてもらった質問…本やインターネットでは調べられなかった事実を元に、連作2013年「いのちの理由」、2014年「禎子ふたたび」のシナリオを書きました。

f:id:toshioh:20190806215608j:plain
f:id:toshioh:20190806215619j:plain
2013いのちの理由、2014禎子ふたたび

私の平和劇のシナリオの中で唯一の連作です。いい作品だから、いつかまたとりくんでみたいなぁ。